8月初旬に子猫のトライアルが始まって、先日それが終わり子猫がうちの子になった。
子猫は子猫らしくかわいいけれど、腹の中に「5月に死んだ婆猫のほうがかわいい」「この子をかわいいと言い切るのに罪悪感がある」という気持ちがあって、可愛がりきれない。
子猫に名前を付けたけど、猫=婆猫になってしまっているので、ついその名と呼んでしまって訂正する。
そんなことはしょっちゅう。
子猫は婆猫に全然似てないし、共通点と言えば猫であるというそれだけだ。
自分でわざと全然違う猫を選んだ。
毛色も、性格も、顔も。
そのほうがかわいがりやすいと思ったから。
婆猫に似てると、婆猫を思い出すばかりだと思ったから。
でも逆もしかり。
似てないから、婆猫はこうだったああだったとやっぱり思い出すのだ。
婆猫については、子猫を扱う自分を振り返ると、溺愛してたなと思う。
何やっても可愛かったし、何でも買ってあげたかったし、何でもしてあげたかった。
自分にとって永遠の子猫、永遠の子供だった。
婆猫は3か月という無条件に全世界が可愛いという月齢でうちに来たこともあって、目に入れてもいたくないほど可愛い猫とインプットしてしまったせいもある。
子猫はうちに来た時点で4か月だったので、若干大人びてきていた。
それとうちに来てすぐ結膜炎になり、目力ダウンで光彩がいつも細かったので、可愛さ半減だった。
子猫にも精一杯のことはしてあげるつもりだけど、買い物意欲はさほどでもない。
まぁ、まだ1か月しか一緒に暮らしていないのだから、14年寄り添ってくれた猫と比べて思い入れが浅いのは当たり前なんだけど。
甘え方が婆猫と違うだけで、子猫なりに甘えている。まだビビリな部分あるけど。
今も毎日婆猫のために水とフードを用意し、ろうそくを点けて線香をたく。
かわいいねいいこだねと祭壇の骨壺や写真に話しかける。
涙ぐむこともある。
百閒先生の「ノラや」を読んで、クルツ(ノラは行方不明になった。クルツは後釜に座った似た猫)が現れ家になじんでいく様子を自分になぞらえようとパラパラめくっていたら、クルツが亡くなった時の記述があって、数行読んだけど涙があふれて読めなくなった。
子猫が生きていて触れても甘えても、婆猫がいない淋しさはきっちりとは埋まらない。
すきまはあるんだ、どうしても。
