最愛の婆猫が亡くなって1年経った。
一周忌は共同墓地に行こうかと思っていたのだけど、最後に供えたのが百合で、当然それを持っていこうと考えていた。
共同墓地なので他の方が花を供えているかもしれないなと検索してみたら、その場合他の花のないお墓に移すか、数を減らして一緒に挿すとあった。
で、そこに「香りの強い花、薔薇や百合は避けましょう」て。
えぇ…それはないわ。
百合は猫には良くないので、家には飾れない。
家には1歳になった猫がいるので、婆猫のためでも家には置けないのだ。
どうしようかなあ、とグダっているうちに一周忌が過ぎてしまった。
まぁ家のお仏壇に分骨しているし、そこにはずっとお花も飾っているし、共同墓地のお骨はとうに土に返っているのではと正直思っているので、行ける時に行くことにする。
一周忌を境に、毎日が「去年は居た」が「去年も居なかった」になってしまった。
毎日毎日、ろうそくに火をともし線香を焚き、可愛いねと語りかける。
骨壺に、遺影に、デジタルフォトに。
それを1年やってきた。
正確には6月くらいからだったろうけれど(いろいろ揃えるのに時間がかかっていたから)、欠かさず毎日やってきた。
行ってきますただいまも毎回言った。
これからもそれをやめることはないと思う。
けどそろそろ、1歳の猫に向かって「かわいいね」ということに罪悪感を持つことを止めたいと思う。
一挙手一投足を「あの子と反応が違う」とがっかりすることを止めたいと思う。
猫がかわいいのは普通のことだし、生い立ちも年齢も全く違う猫が、違う反応をするのも普通のことだ。
この猫はあの猫の代わりではない。
ようやっと最近、少しずつだけど、それが受け入れられるようになってきた。