WOWOWでZガンダムⅢをやってたから観た。
カミーユが精神崩壊しないらしい、と聞いてたので、どういう展開するんだろうと思いながら観る。
うーんなんか詰め込みすぎ? 展開早すぎで、初見だと絶対意味不明だろってところが一杯。
自分自身、本放送以来まったく観てないから、ゼータの細かいストーリーはもう忘れちゃってるし。
ゼータってティターンズ・エウーゴ・ネオジオンの三つ巴で、しかもティターンズは内部分裂してるし、ネオジオンは政治的策略で立場を(見かけ上)ころころ変えてるし、敵味方かかわらず普通に会話してたりするし、誰が誰の味方で、どこがどこと敵対してるのかすぐわからなくなる。
善と悪で分けられないのはいいとしても、あっちとこっち、くらいにしておいてくれないと、見てる側がきびしいわ。
で、カミーユ。
TV版では、強力すぎる感応能力のために人の精神を内部に取り込みすぎ、最後にはシロッコの精神に食われてパンクしてしまった。
映画ではどうなるんだ~と思っていたら、精神を取り込んでいるのはゼータの機体そのもので、カミーユはそれに同調できる最強のニュータイプという感じ。
つまりシロッコを壊したのはあくまでゼータであって、それを操るカミーユではない、と。
なのでカミーユは連れて行かれずにゼータの中に残ることが出来、ファとラブいハグを見せ付けてエンディング。
え、と。
いいよ、うん、ハッピーエンドで、いいと思うよ。
でもさ、ファとのラブハグはなんか違う感じがする。カミーユがファに恋愛感情があったとはとても思えない。
ファがカミーユ好きなのあからさまだけど、カミーユはずっと他の女性にばっか気をとられてた。
もっとファが積極的にカミーユに愛情表現をするとか、カミーユがファにそういう思いやりを見せたりするシーンがあれば、それなりに納得がいくのだが。
カミーユが無事生還してくれたのは、カミーユが好きなわしとしても嬉しいのだけれど、「愛する人の下へ帰った」という演出よりは「生きてみんなのところへ戻れた」という演出をしてくれたほうが、まだしっくりくるかもしれない。
んーでもそもそも、ファーストガンダムに比べて、ゼータって家族的なつながりは薄いか。
ファーストってほぼ全員がはじめから一緒に居るし、一人のリーダーの下で行動して、一つ屋根で暮らしている。
ゼータはあちこちから集まってきた印象があるし、艦が2隻あるから物理的に分裂してる。「みんなの下へ」という意識は薄そうだ。
そう考えると、カミーユが一番戻りたいのは、一番仲良しのファの所かもしれんな。
結構重要なシーンもバッサバッサ切って作ったようだけど、それでもものすごいジェットコースター映画で、90分×3本では短すぎるね。
客が集中して観られるのが90分くらい、という判断でそうしたらしいけど、ファーストの劇場版はどれも2時間あるじゃん。
魅力ある内容なら、2時間半でも食いついて観るんだよ、映画って。
ゼータを仕切りなおしたい、って気持ちだけはよくわかったけど、時間なさすぎで、どのエピソードもサっと見せてハイ終わりーって感じ。結構不満が残る。
キャラ周りをもっと整理して、まったくの新作で作ったほうがよかったんじゃないスかねぇ。
補足…。
ゼータの映画に関するレビューなどを読んだところ、みなそれぞれの解釈があって面白かった。
小説版ゼータや監督のインタビュー記事を鑑みた上でゼータを読み解いている人は、かなり深い持論を持っていて、なるほどなあと感心した。
ただ思うのは、そうやって他の情報も合わせないと真に理解出来ないというのなら、ある意味それは失敗ではないだろうか。
わしは「ゼータか、懐かしいな、カミーユ好きだった。見てみようかな」というとてもライトな観覧者だ。
だから、そんな裏設定など知らないし、知ろうとも思わない。
わしにとっては映画からの情報が全てなわけで、そこから読みとることの出来ない情報は、無いのと同じだと思う。
ガンダムという作品が富野監督の分身なのだとしたら、エヴァンゲリオンという作品が自身の分身でもある庵野監督なんらかわらない。
監督が己を補完するためだけの作品と言うことになってしまう。
映画は監督のためにあるのではない。観る人のためにあるのだとわしは思う。
己を慰めるために作っているのなら、自主映画にして自分だけで観ればいいのだ。
ゼータのハッピーエンドは、わしには、安易な大団円にしか見えなかった。